出会いと別れ




いつの間にか満開だった桜の花びらも散りはじめ、若葉が鮮やかに芽吹き始める季節となりました。
5〜7分といったところでしょうか。



この季節になると毎年、「散る桜 残る桜も 散る桜」という良寛の句を思い出します。
この歌は「どの桜の花も皆必ず散る運命にあること」を意味しますが、桜の儚さと人の命を結びつけた多くの特攻隊員が、この句を遺書(太平洋戦争期)に綴ったことでも有名です。
「自分がいつか必ず死ぬことを忘れるな」という意味の警句でもある、ラテン語の「memento mori(メメント・モリ)」にも通ずるものがあります。

春は別れの季節といいますが...
さようなら」の語源は「左様ならば」であり、「そういうことならば」「そのようであるならば」を意味します。
「さようなら」とは、「そのようであるならば」と現実を受け入れたうえで、次にどうなるのかが定かではない曖昧模糊な名残を惜しむ別れ言葉であるように感じます。

比較文化論の視野から日本語・日本人論を分析した荒木博之氏の「やまとことばの人類学(朝日選書)」では、「さようなら」について次のように説明しています。

日本語の別れの言葉である「さらば」も、いままでの「こと」が終わって、自分はこれから新しい「こと」に立ち向かうのだという心のかまえを示す特別ないい方であるといっていいのである。
日本人が古代から現代に至るまで、その別れに際して常に一貫して、「さらば」をはじめとする、「そうであるならば」という意のいい方を使ってきたのは、日本人がいかに古い「こと」から新しい「こと」に移ってゆく場合に、必ず一旦立ち止まり、古い「こと」と訣別しながら、新しい「こと」に立ち向かう強い傾向を保持してきたかの証拠である。

春は別れの春でもあり、出会いの春でもあります。

桜の花は散ってしまいますが・・
同時に生命力溢れる若葉が萌え始めるのが、春です。

故に5分はまさに、別れと出会いが表裏一体であることを表しているかのようにみえます。



職業柄でしょうか。
「別れと出会い」という単語を聞くと、「子育て(子の成長)」を連想します。

子育ては、小さな別れ(卒業)の連続でもあるからです。
子供は日々成長すると共に、できなかったことができるようになり、できていたことができなくなっていきます。

母乳を卒業してご飯を食べるようになり、
四つんばいから歩くようになり、
あんなに大好きだった抱っこをせがまなくなり、
今度は自分が誰かを抱っこするようになります。

あっという間に桜シーズンが終わるように、「赤ちゃん」と呼べる時期もいつかは終わりがきます。
冒頭で「散る桜 残る桜も 散る桜」という句を引用しましたが、どの桜も皆散る運命にあるように、どの赤ちゃんも皆"赤ちゃん"を卒業する日がきます。
そして桜が散ったあとには生命力溢れる若葉が芽をだすように、子どもたちも万物流転の如く自立していきます。
そんな子どもたちの健やかなる成長過程を支援し続けていけたら幸いです。

皆様にとっての春が、出会いや実り多き日々になりますことを願っております。






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